今日小布施の北斎館を訪ねて、この浮世絵(Art Enviより)の本物を見て来た。浮世絵の制作工程がいかに複雑かを再認識させられた。それはさておき、80才を超えていたにもかかわらず、北斎が江戸から240キロ離れた小布施に来て 創作活動をしたのかその経緯を知り大変興味深かった。
小布施は、江戸の浮世絵師・葛飾北斎(1760-1849)が晩年に逗留し、画業の集大成をはかった特別な場所です。北斎は80代半ば、郷土の豪商・高井鴻山(1806-83)の庇護のもとに、岩松院や東町・上町祭屋台の天井絵を描き遺しました。当時の小布施は、繁栄を誇り、北斎をはじめ当代の文人を惹きつける魅力ある町でした。(北斎館パンフレットより)
江戸遊学時代に交流のあった画家・葛飾北斎(宝歴10年~寛永2年)が、鴻山を訪ねて小布施へやって来たのは天保13年(1842)の秋。80才を超えた老画家が、はるばる小布施を訪れた理由には諸説があるが、天保の改革の過激な取り締まりを避け、北斎芸術の良き理解者であり、経済的な支援者としても頼もしい鴻山のもとへ、身を寄せたと考えるのが妥当であろう。北斎はその後再三にわたって来訪し、鴻山が提供した「碧一軒」をアトリエに、数々の肉筆画の傑作や鴻山との合作を残した。鴻山は北斎を師と仰いで尊敬し、北斎は鴻山を「旦那様」と呼ぶ、折り目ある交流が続いたと伝えられている。(高井鴻山記念館パンフレットより引用)
北斎は浮世絵師として名声を博したことは知っていたが、絵画を志す人たちのために戯れ画を制作していた。その一つひとつを見ると、彼の絵画に対する高い志しが判る。フランス、パリの若い画家たちにまで感銘を与えたのだが、その才能は在世していた時には認められていなかった。そんなことを知るよい半日だった。