2009年7月7日火曜日

公民館での写真展示


今日は写真クラブの月例会だ。そして、クラブメンバーの作品を公民館のロビーに展示した。(一番右端の写真が私の作品「日本一」。弘前公園で撮影した日本一太いソメイヨシノ。)このクラブを指導している方は、83歳という高齢だが綽綽たるものだ。健脚で撮影会でも疲れを示さない。ほとほと感心する。アーなりたいと思う人の一人である。以下に、経歴を示す。

富岡 畦草
1926年、三重県に生まれる。1948年、新聞写真記者となり、1951年に官庁広報に移る。身辺社会の記録写真を心がけながら、国際写真サロンにも美術写真を出品。定点観測式撮影法(定点撮影)という写真記録の発想と実践に対し、1958年に日本写真協会第1回新人賞を受賞。その後、各種学習参考書、教科書などに写真を提供する。1987年に定年退職後は、省庁が主催する公募写真コンクールの審査員、神奈川県高校写真連盟講師、審査員、地元近郊都市公共生涯学習写真講座に協力している。さらに、講座の卒業生による多数の写真サークルの活動も援助している。また、1955年以来、わが子の成長を29年にわたり追い続けた連日記録写真は、現在、娘夫婦の手で孫に引き継がれ、唯一の長編写真記録とされている。これらの膨大な記録写真は「大いなる家族・富岡家8万枚の記録」など、様々な記録写真をテーマにしたNHKの特集番組に何度も登場している。日本写真協会、日本写真家協会、日本自然科学写真協会、日本写真芸術学会、日本写真著作権協会に所属 (Amazonの書籍案内より引用)

「定点撮影」という言葉を初めて使った方でもある。経歴にある官庁とは人事院である。ここに所属してカメラマンを務められた。天皇陛下の結婚式の様子を写した写真を今日見たが、その時代の風景を切り取っていた。撮影したフイルムが30万枚にも達しているとのこと。それをいかにして後世に残すかに懸念していられる。どなたか支援してくださる方はいないでしょうか?ところで、今日の先生が話されたことを記録するに値することを下記する。

日本の写真雑誌は危機に瀕している。有名な写真誌といえども社員にボーナスを支給することもできないそうだ。なぜそのようなことになってしまったのか。写真の職人の作品ばかりを掲載するだけなのが今の写真誌だ。今使われている写真機は昔とは比べ物にならないほど発達している。職人技は必要ない時代になっていることに気づく必要がある。

もうひとつ。昔写真の達人と言われた人たち、たとえば土門健氏などは、人、モノや風景を上から眺めている写真を撮ることをよしとしていた。今の写真家といわれる人たちも同じで変わっていない。しかし、先生は庶民の目で眺めた写真を撮ってきた。これが定点撮影につながったと先生は言う。

いつまで経っても写真家が絵画や彫刻、物書きや評論家の世界には加えられない。なぜなら、教養がないからだ。だから勉強しなさい。

これらすべてに感動した。カメラのない家も無ければ、携帯電話で写真が撮れる時代に合わせた写真誌を作らないから売れないだけのことだ。こんな個人的な趣味を通じても日本、あるいは日本人の問題点が浮き彫りされた午前の時間だった。今日は七夕。どうかもっとよい日本にしてくださいとお願いしょう。

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